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7月のメッセージ
「隣人(りんじん)を自分のように愛しなさい。」
新約聖書 マルコによる福音書12章31節
今津幼稚園 後藤 聡
キリスト教の究極の教えとはなんですかと言われれば、「隣人愛(りんじんあい)=隣の人を愛すること」ですと答えれば正解なのですが、これはキリスト教以前の旧約聖書にもある言葉です。また、多くの宗教でも似たような言葉があるでしょう。
それでは、その「隣人」とはだれを指すのでしょう。おそらく、家族だとか親族、クラスメート、職場の同僚などを考えるでしょうか。少し広げれば、同郷だとか、民族だとか、おなじ国民などという共通項をみつけることもあるでしょう。夏の甲子園の高校野球の季節が来ます。あまり熱心ではありませんが、わたしは仙台の出身ですので、故郷のチームには関心があります。しばらく沖縄で生活したことがあったので、沖縄のチームも応援します。共通項とはそういうものです。
はじめて会った人でも、その共通項がみつかれば話がはずみます。逆に、すこしでも違うことがあれば隣人ではなく「敵」としてしまうことがあります。いったん「敵」としてしまうと、その存在すら許すことができなくなってしまい、排除、抹殺することをいとわなくなります。人間社会は、異質なものを受け入れることもできますが、悲惨なことが起こるのも歴史が示しています。いじめや差別、戦争など、かなしいことに人間は続けています。
主イエスの時代は、ローマ帝国の支配下に、エルサレム神殿を中心にした既成のユダヤ教が、社会を支配していました。宗教指導者は、こころやからだを病んでいる人々、外国人やつらい仕事をしている人々、厳しい生活を余儀なくされている人々に「罪びと」とレッテルをはりました。神さまから離れている人であり、隣人ではないと規定しました。
主イエスは、だれもが神さまによって作られた存在であるとし、どんな人間でも神さまの前では平等だと教えられました。善人も悪人も同じなのです。だからこそ、その人間同士が「この人は隣人ではない」ということを神さまはおゆるしにならないのです。誰もが神さまにとってかけがえのないものなのです。
さんびかに、「友なきものの友となりて」という歌詞があります。わたしたちは神さまにはなれませんが、神さまに近づくことはできます。そうです、仲間の枠を超えて、全ての人を大切にできることが「隣人愛」なのです。